ルールとマナー
私どもの事務所のある千代田区では数年前から「路上禁煙」の条例を施行するようになった。私のような大のタバコ嫌いにはありがたいことだが、そのことを知らせるポスターの標語が気になっていた。「マナーからルールへ」とあるのである。
ルールとは、スポーツで分かるように、守らなければ罰則が伴うもの。さしずめサッカーで言えばイエローカード(忠告)やレッドカード(退場)である。市民生活でもたくさんのルール(法律・条令)に囲まれていて、それを守らなければ罰や刑が与えられる。
一方マナーは、ルールではないが人間として当然守るべきものであって、守らなくても罰則は無いが、守っていないと他人に迷惑を掛けたり、場合によっては忠告を受けたり、大げさになれば村八分に遭うことすらある。厄介なことに、マナーは地域社会や環境によって異なるし、異なった環境に育った人間が異なった規範をぶつけて論争になる。
ある人にとってもっと厄介なことには、ルールは明文化されているものがほとんどであるが、マナーはほとんどが明文化されていないために、さまざまな問題を引き起こすことがある。
最近の例としては、例のホリエモン語録である。企業買収や株価吊り上げのさまざまな策を講じて、「行け行けどんどん」の頃、「法律に規程されていないことをやってどこが悪いのですか!法律が私たちを追いかけているのでしょうね」とは良く表現したものである。ルールに無いことをやってどこが悪いということである。ある程度のマナーを身に着けた人々にとっては、なんと小憎らしい奴だと思ったに違いない。事の顛末は、やっぱりルールを守っていなかったということで、あっけなく逮捕されてしまったが。
人や組織の成長という観点で考えると、ルールが無ければ何をしても良いとか、もっとルールを作ろうということはマナーよりも幼いことになる。人はルールが無くても本来有している無言の内の不文律があり、それに従ってお互い平和の内に過ごして行こうとするものである。これは崇高な、そして厳粛なものであって、人や組織の成長では十分な大人になっている証拠といえる。
千代田区の標語は時代(成長した社会)に逆行しているのか、それとも社会の成長があるべき姿に逆行しているのを、逆説的に挑戦しようとしているのか。あれこれと考えさせられてしまう。
聖書の中で大切なメッセージとしてもこの点が語られている。昔イスラエル人は自分たちがうまくやっていくためにどうしたら良いかを神に求めたところ、モーセの十戒やそれを基本とした数々の律法(ルール)が与えられた。以来2千年弱の歴史の中でイスラエル人の指導者たちはそれを悪用して、律法に明文化されていないことを何はばかることなく行う一方、民衆に対しては事細かな細則を作って圧政を強いるようになった。
それから救い出したのがイエス・キリストである。律法を廃して「愛」という新しい掟(マナー)を教えることにより、それがどんなに良いものであっても律法(ルール)一本槍では決して人間社会は成長しないこと、究極の成功の秘訣は、人本来の中にある人間性の理解や本質に根ざした不文律(良心=マナー)によって律せられるべきものであることを、人類に教えた。それからまた2千年が経っている。
さて、企業内教育を考えた場合に「ルールよりもマナーが成長の証」という考えは非常に重要なことである。企業活動を成功裏に導くために社内外の活動において、コンプライアンス、企業倫理、企業統治、CS、ES活動などさまざまな施策が検討され実施されているが、それらが「ルール化されたとき」に「それで良し」という風潮は無いだろうか。そうでなかったとしても、それらを声高に教育で徹底して遵守を強いることで「良し」となっていないだろうか。
企業やそこに働く人々の本来のあるべき姿、例えば企業で言えば「社会貢献」や個人の場合は「自己実現」など、を達成するために中心となる考え方や行動規範(マナー)が共有されるところに大人の教育の本質があるものと考えることができる。HRD研究所の永遠のテーマになるのかもしれないが、あえて挑戦してみたい。
最近、千代田区の掲げる標語に変化が生じている。「マナーからルールへ、そしてマナーへ。」(???)良く分からないが、きっと誰かから「時代に逆行しているよ」と指摘があったに違いない。それとも、もしかしたら自ら気づいたのかも知れないが、一度かざした拳骨(ゲンコツ)はおろせないのか、それともいずれは条例を撤廃するつもりなのか。それだけは困るのだが。
(TY)
2006.02.02
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